

本多 結(ほんだ ゆう)さん
みなかみ町出身。大学では自然科学を学び、建設コンサルタントに就職。29歳でUターン、株式会社たくみの里に就職。道の駅の運営と赤谷プロジェクトを繋ぐ役割を担っている。二児のパパ。
2025年4月。まだ冷たいながらも空気が温み始め、春の訪れを感じる天気の中、みなかみ町の観光名所の一つである、たくみの里のカフェで今回の主役である本多結さんとお話をさせていただいた。


インタビュアー: akiko
東京都出身の染織家。糸染め、織り、縫い、使って直す……という「“自然と共生する物づくりの連続性”を感じる体験を提供するサービスを作りたい」思いで、みなかみ町へ移り住む。
本多結さんは、現在『道の駅たくみの里』を運営している株式会社たくみの里に在籍されています。たくみの里にある『森のおもちゃの家』が赤谷プロジェクトと縁深い施設だと思うのですが、赤谷プロジェクトに関して、個人として関わってるのが多いんですか? それとも、たくみの里としても関わってる感じなんですか?

引用:たくみの里とは

引用:たくみの紹介 森のおもちゃの家
仕事(たくみの里)としては、『森のおもちゃの家』の運営という形でプロジェクトには関わっています。赤谷プロジェクト関係者の方々は、森の行き帰りで良くたくみの里にもいらっしゃるので、観光業をしながらプロジェクトに関われる立場にあるのは楽しいですね。
赤谷への関わり方は、当初は個人での活動10割だったけど、今は社長はじめ会社の理解もあって動こうと思えば5:5ぐらいでも動けるようになっていますね。最近では、道の駅のベンチや什器をプロジェクトの仲間たちとイヌワシ材でつくったりもしました。
子供の頃は、活動が好きではなかった
最初は 10という事は、完全に個人で関わっていたという事ですよね?
それは、ご自身のルーツが何かしら関わってたりするんでしょうか?
そうですね。
僕の父が赤谷プロジェクトの前身『新治村の自然を守る会』にずっと関わっていたんです。法師温泉の現会長さん、湯宿温泉金田屋の社長さん・・70 代ぐらいの大先輩たちと一緒に。
僕が子供の頃はスキー場の反対運動をしていました。でも、反対ばかりでまともな事をやっていないように見えてて、良くは思っていなかった。
当時は地域も家族も行政の理解も進んでいない状況の中で、世代的に学生運動のノリで反対運動やっている感じに、斜に構えて見てました。父は家にいないし、仕事も何をしてるかよくわからなかったし、みたいな人だったので、個人的な感情もあって、守る会の活動には抵抗がありました。

なぜ、ネガティブなイメージの強かった活動に、自ら関わるようになったんでしょう?
20代の時は大学で学んだ地質学を活かして大阪で建設のコンサルタントとして、土木とか自然環境とかに関わる仕事をしていたので、関連の専門誌をよく読んでいたんです。
その頃の赤谷プロジェクトは、“治山ダムの中央部を撤去して渓流環境を取り戻す”みたいな取り組みをやってて。当時まさにその砂防ダムの設計に仕事で関わっていたので、目を引かれて記事を見たら『赤谷プロジェクト群馬県みなかみ町』って書いてある。そこで、なんか面白い感じになってるなって。
それまでは反対運動だけやっている人達として結構ネガティブに捉えていたんですけど、自分が仕事を通して興味を持った分野で建設的に取り組んでるんだ、というのを知れて、ちょっと興味が湧いてきました。
森を「活かす人」との出会い
その後、みなかみ町に戻っていらした?
29才の時に地元へ帰ってきました。そうしたら同級生が『さるしょうの乱』っていう交流イベントの実行委員長をやることになって、一緒に活動に関わるようになりました。
その時に各分科会みたいなのを主催することがあって、僕は猿ヶ京ホテルの大女将に民話の語りをしていただく会を担当していたんですが、日本自然保護協会(NACS-J)の出島さんが『akayaカフェ』っていうサイエンスカフェをやってた。その時が出島さん・赤谷プロジェクトとの実質的な出会いです。

出島さんと話してみると、凄く楽しそうな事をやってるな、と感じたんです。反対運動によって守られた森を手探りながら地域にどう活かそうか、と情熱をもって楽しそうに動いている方々がいるんだっていうのを知りました。
今、僕は観光業をやってますけど、元々自然科学を学んできた事やキャリアで何か地域の役に立てないかな? みたいに思ってたんです。それで、プロジェクトにぜひ関わらせてください、と地域協議会に入ったのが30才くらいの時でした。
“活動”から“仕事”へ。『森の恵みと学びの家』の立ち上げ
最初は外部みたいな感じで繋がりがあって、 1 年かけて本格的にメンバーになったんですね。
そうですね。一番しっかり中に入ったのが、10~11年前、『森のおもちゃの家』の前身『森の恵みと学びの家』の立ち上げの時です。その頃ちょうど、みなかみ町がユネスコエコパークに認定されるための動きがではじめていて、その発信基地としての場所をたくみの里に作ろう!という話を出島さんと、役場職員の方から持ち掛けられました。


引用:文部科学省
「みなかみユネスコエコパーク」は2017年に登録されました。
引用:みなかみユネスコエコパーク
ただ、店をやる以上はやっぱり稼ぐ事業を作っていかないと継続できない。
そこで、出島さんがカスタネット工房の冨澤さんと“森のカスタネットづくり”というワークショップを既にやっていた事もあって、体験や販売の形でやっていこうとなりました。

森のカスタネットスペシャルサイト より
運営するに当たって誰か人材がいないか?となった時に、同級生でもある小室君が木工で有名な上野村(群馬県の南西部)に移住していて。『さるしょうの乱』で再会した時に、木工に関わっているのかと思って声をかけてみたら、実はトマトを作っていた(笑)
まさかの全然違う分野(笑)
でも僕と一緒で、いずれ帰りたいという気持ちはあったようで誘ったら帰ってきてくれて。『森の恵みと学びの家』の運営担当になってくれたんですよね。

こむろ農園(komuro_farm) Instagram
その時に赤谷プロジェクトで会社を作るか、という話もあったんですけど、最終的に当時道の駅たくみの里を運営していた公社にやってもらおう、という話になりました。
個人で急に起業や雇用も難しいし、初期の事業費に公金が使われる以上、好き勝手はできない。役場や赤谷プロジェクトとしての意図もある。そんな中、公社の立場は丁度良い受け皿だったんです。
結果的に、僕は公社の職員として、彼と一緒に施設の立ち上げに仕事で関われる、という形になりました。
つまり、企画とか準備とかの段階では、あくまでも赤谷プロジェクトのコアメンバーとしてだけど、運営の母体としては今のたくみの里という事ですか? 柔軟性が求められそうですね。
正直、当時は公社の上役たちに赤谷プロジェクトへの理解は乏しかったので、小室君はやりづらそうな様子もありましたが、彼のパーソナリティもあって良く機能していましたし、販売の仕組みが整っていない状況も整備されました。
5年ほど運営してくれましたが、社内での彼の役割や事業の変化もあったのと、小室君が農業の道へ進むというのをきっかけに、僕の方でより親しみやすい施設にと、コンセプトを練り直し、現在の『森のおもちゃの家』になりました。


『森のおもちゃの家』は、子供の遊び場を作ったり地域の門戸を増やしています。
今は運営母体はたくみの里のまま、10年来の友人である北山さんに運営を協力いただいています。北山さんは、元々自伐林業で伐採した木を使ったワークショップもやっていて、当時ちょうど拠点を探されていたのでお誘いしました。

写真引用:イヌワシ木材(inuwashi_mokuzai) Instagram
節目節目で色んなことがありましたが、当時の状況を考えると、あの形で始まり、今の形に収まって良かったかなと思っています。
akayaカフェ – “楽しい”から始まる、森との関わり
現在は、本多さん個人としては、プロジェクトとどういった関わりをしてらっしゃるんでしょうか?
主には、出島さんがやっていたakayaカフェを引き継いで、年に1〜2回ほど開催しています。

コーヒー片手に猛禽類の専門家・山崎先生の楽しいイヌワシトーク
最初に企画したのは『草木屋 染の家』の山崎君とカスタネットの冨澤さんと協力して、”ブナ太郎”の削りカスを染色しながら赤谷の森やプロジェクトの話を聞いて貰うワークショップでした。

引用:https://mori-megumi-manabi.amebaownd.com/posts/965835/

それ以降は“熱帯雨林を守りながらコーヒーの木を植える”という森林農法をしている友人を呼んで自然共生型のコーヒー豆を焙煎しながらとか、兼業猟師をしている本間さんによる鹿革キーホルダーを作りながらとか、自然農法によるお米を使った寺田本家のお酒を楽しみながら、とか。

猿ヶ京ホテルの大女将・靖子さんの民話の語りからイヌワシの住む森のことを学ぶ

森を守りながらコーヒー豆の栽培を行う森林農法についてコーヒーの手焙煎ワークショップとともに学ぶ

完全無農薬米でお酒を醸す寺田本家の寺田優さんのトークとお酒とともに自然との共生について学ぶ
赤谷の森の話と親和性の高そうな分野の人による“楽しめる催し”と併せる事で、自然や環境に関心はあるけど、しっかり関わるまでは行かない人達のアンテナに届くようなカフェイベントを企画しています。
結婚や子育などで開催しない時期もあったんですけど、プロジェクト20周年のタイミングで、ゆっこちゃんに発破をかけられて、また再開しました(笑)


20周年は大きな節目だったから大々的だったけど、『桐匠根津』の根津君による桐の植栽とか、ママ友と一緒に企画した水辺の生き物観察会とか、外に出たり落ち着いた空間での開催もしてます。

生き物観察会は、実は以前ゆっこちゃんが企画した物に自分が都合つかず家族だけ参加することになったのが悔しくて、akayaカフェとして企画しました。結果的に、家族連れで自分も参加者としてプロジェクトに関われる事になったのが良かったです。
自分が楽しむことで裾野が広がる。2世代目の強みとして、多くの人の繋ぎ役に。
主催側からの視点だけだったのが、参加する側の視点でも触れる事ができたんですね。参加者の視点も体験して、ここまでやって来ての発見だったり、やってて良かった事、心に残ってる事ってありますか?
僕は父を見ていたのもあって「赤谷プロジェクトは、家族でやるものじゃない」というスタンスだったんです。それが、家族と一緒に桐を植えたり友達もできて「楽しいな」と思えて。20周年に開催したakayaカフェまで「なんとかしなきゃ」って使命感からだったのが、「自分が楽しまなきゃ!」みたいに考え方が変わってきました。
妻は基本的にあんまり赤谷の硬めのイベントへ行きたがらないんですけど、うちの長男は虫を取るのが大好きで家の前の川にも毎日遊びに行く。長男の姿を見てるから、子供がイベントに行きたいって言えば来てくれるんです。


あとは、妻の友達が作ってるおにぎりを会場で振る舞ったりとか。そういう要素も盛り込みつつ企画すると、「あの子が作ってくれてる物もあるし、行こうか」となってきてくれました。
自分が楽しいと思う形でやると、使命感でやっている人だけで無く、もっとライトな層、新しく関わっていって欲しい人にも届くものになるんだ、というのが最近の気づきです。
自分や根津君、『sumika』の長士郎君の世代って親が赤谷プロジェクトやその前身に関わってる、いわゆる第2世代みたいな感じなんですけど、その辺の人達は親世代のやってきた事も新しく関わってくださってる方の感覚も分かると思ってる。
その強みとこれまでに培ってきた人との関係性を活かして、地域内外に増えているプロジェクトに興味関心がある人達にとっての窓口や、プロジェクトに長く関わっている地元の方々や役場、自然保護協会、赤谷センターなどへの繋ぎ役になれたら、と言うイメージを持つようになりました。
例えば、みんなが色々動いてくれて一つ形になったのが、株式会社アイチコーポレーションさんとの関係です。
元々たくみの里と何かしたい、と何年か前から秋のお祭りに高所作業車を出してくれたりしていたんですけど、ゆっこちゃんに繋いで施設内設備にイヌワシ木材を採用したり、社内交流イベントにカスタネットのワークショップを取り入れてくれたりしたんです。それ以外にも現在進行している企画がいくつかあります。

これらが実現したのも、窓口・繋ぎ役としての意識を持って動けたからこそなのかなと思っています。
地域協議会の課題 ー 森と関わり守るために“続ける仕組み作り”の必要性
逆にプロジェクト関わっていて「難しいな」「どうにかできないかな?」と感じる部分はありますか?
1番課題に感じてるのは『赤谷プロジェクト地域協議会』の在り方、かなと思っています。
地域協議会はボランタリーな集まりなんですよ。今年はこんな事しよう、と言うのはあるんですけど、それらは全部個々で活動をしていて、組織立って何かをやってるわけじゃないんです。そこへ新しく会員になりたい人が現れても、返せるモノが無い。現状の繋がりの形としては、メーリングリストやLINEが流れてくるくらい。既にある強力な赤谷のネットワークの有効な活用方法や、希望する人に対して資源を販売するための仕組み作りと言った、継続するのに必要なマネタイズの仕組みが無いんです。
最近はゆっこちゃんの活動もあって移住者や新しい形で興味を持ってくれた参加希望者が増えてきたし、ベテランだけでなく、若手のプレーヤーも今はいます。地域協議会には、こうした熱意を持って入ってきてくれた人にとってのメリットとなるものが必要だと感じています。
どういった形で実現するのが良いのか、構想はありますか?
地域協議会は、基本的には赤谷・みなかみの自然を愛する地域住民のコミュニティというかプラットフォームだと思うし、そこと関わるメリットって繋がりができたり、その繋がりが自分の事業の役に立つってことかなと思っています。なので、イメージ的には地域協議会がハブまたは事業体になって、プロジェクトと関わる様々な活動やローカルビジネスが生まれていく。どこかの大企業が来てやる、というよりは地域協議会に基づいた事業体みたいなものに将来なっていいくのがいいのかなとは思ってます。
その事業体がハブになって自然保護協会や林野庁、みなかみ町や赤谷プロジェクトと関わる企業さんなんかかと綱引きをしつつ仕事を受けて、「〇〇さんこれ作ってください。」「〇〇君なんか一緒にやろうぜ」っていう風に物や体験を作って売る、とか。そうなってくと面白いんじゃないかなと思ってます。
とはいえ、地域協議会は元々“森を守りたい”人達の集まりからの流れです。無理に引き込むような事はせず、商売とは無関係の純粋に自然との関わりを持ちたい人達にとっても依り代となるプラットフォームとしてあるべきかな、と思います。
ただ、誰かがやるって言わないと進まないんだろうな、と思いつつ、なかなか日々に追われて手を上げる踏ん切りがつかない所があります(笑)。
自分の仕事の延長線上に活動内容がある立場なら良いんですけど、僕がする場合は頑張って取り組んでも、間接的に仕事に繋がらない限りは、ほぼボランティアになっちゃう。副業的な感じでもいいから、関わる事が多少なりとも割に合う活動にならないと、かつてのネガティブなイメージを持った方向へ進んでしまいそうな気もしてます。
次代に繋ぐアクション ー 置き去りにされた”真ん中”を支えたい
そういった考えの元、今、もう一歩踏み込んで自分が何か新しいアクションをするとしたら、どんな事をやりたいですか?
喫緊の事では、カスタネットが滅びそうなのを何とかしたいです。冨澤さんがご高齢で、もうできなくなるかもっていうのが目の前にあって。小室くんとともに長く一緒にやってきた思い入れもあるので、なんとかしたいな、とは思ってます。ちゃんと次代に繋ぐアクションをちゃんと事業として残せる形にしたい。
後継者の方を探し、冨澤さんとつないで、育て、羽ばたいていってもらう、みたいな事を通して、新しいプレイヤーを、どう赤谷と関わってもらうか、みたいな仕組みも1つ作れたらいいなと。
ただ、これも木材の製材や加工方法の選択とか、それらに関わるお金の取り決めとか、結構いろんな事が課題として出てくる。

カスタネットの材料は、当初は赤谷プロジェクトから出た物を渡す、という事があったかもしれないけど、途中から冨澤さんが材の仕入れから、製材屋さんへの持込みまでも自分でするようになりました。ほぼボランティアで、しかも元々一度辞めようと思ってた方だったのに、いつの間にか普通の仕事になっちゃった。結局80歳超えて今の今までやってくださってますけど、持続的な数字になって未来も見えてこないと続かないんで。
とはいえ、この町の製材や木工といった“自然資源を商品化できる人達”は、どんどん辞められていってるんですよね。まだまだゼロじゃないけど、この町で僕が関わってる10 年でも、辞めてる人がいる。
なんで辞めてるのかっていうと、お金になんないから、後継者もいないから、辞めていってるんですよね。
この間みなかみ町では、自伐型林業のプレイヤーや、ふるさと納税での森林資源の取り扱い、企業連携、学校の校舎への活用、みたいに入口と出口がだんだん整ってる感じがあるんですけど、真ん中の部分、そこが疎かになってる気がします。
分かりやすくてかっこいい所はどんどん動いていくんですけど、地味な所ーー丸太の仕入や、製材の手配、加工方法の決定、販売先と経路の確保ーー民間がやらなきゃならない所が、すっぽり空いていると、中に居て凄く感じるんです。そういう所にも関わっていきたいなっていう思いもあります。
300年先の森づくりに向けた、これからのこと
日本自然保護協会参与で、父の盟友でもある横山さんの話を聞いた時に「300 年先の森をデザインして、それに向かっていく過程を今あなたたちはやってるし、これからもやっていくんだ」みたいな話をされていて、ちょっと感銘を受けたんです。

人生良くて90~100年の世の中で、それだけ長いスパンで物事を考えることは方向性をブレさせることなく取り組んでいくための重要な軸になるし、物作りの過程1つ1つに具体的な未来の森の姿が想像できるようになるな、と。それまでの僕には無かった視点でした。
みなかみ町に帰ってきてから10年ちょっとになりますが、食の商品開発に長く携わってきて、地域に係る様々な活動にも参加して、事業も立ち上げてノウハウも身につけ、その中で色んな人との繋がりができました。これからは、そういった自分の持っているものや経験を活かして、これまでのプロジェクトの流れや将来のビジョンを、関わる人と共有しつつ、目標へ向かう過程1つ1つを拾い上げていく様なビジネスを、形にしていけると良いのかな、と思っています。
作り手の思いや材料が辿る過程、300年先の森づくりに続く物語性やメッセージ性と、品質が共存する商品をプロデュースできたらいいですね。

【編集後記】
赤谷プロジェクトに関しては、どちらかというと森の中で活動している人達と接する機会が多かったので、経営面に目を向ける方のお話を伺えた貴重な体験でした。
物作りをする立場から、課題点や商品開発への思いなど、共感できる点・勉強になる点がとても多かったです。継続するために必要な過程を疎かにせず、そこも含めて伝える努力が必要なんだと感じました。


